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赤べこ肥育スタート

我が村の畜産は日本短角種におうところが大きかった。 その歴史は古く、明治時代には始まったであろうと思う。 自然豊かな我が村にとって、焼石岳山麓に広がる広大な自然には豊富な草があり、山間を縫って牛の絶好のえさ場となっていたであろうし、水も豊富、しかも夏場は涼しく牛にとってもしのぎやすい環境であっただろと思う。 そんな自然環境に着目した先人たちは、放牧に適した「日本短角種」を導入し自然放牧をしてきた。 焼石岳山麓の焼石沼には仮住まいの山小屋を建てて、牛の順番に農家の方々が当番で監視にあたって来た。 夏の事故防止もあり、見回りは結構大変であっただろうと思う。 秋の10月10日には決まって、牛の臨時市場が開設されそれはそれは賑やかな日となっていた。 売買されなかった牛は農家の畜舎で冬を越し、あるいは元気な子牛産み、春には再び焼け石山麓に放牧されていた。 しかしながら、世の中黒毛和牛の時代となり、日本短角種は村からはついにほとんど飼育されなくなってしまって久しかった。 その復活をかけて、ここ数年その対策をとってきたところであり、このたび施設完成とともにその施設を運営する指定管理者制度を導入し、このたび「株式会社 赤べこ仙人フアーム」が設立されその会社が中心になって日本短角種の繁殖、肥育の一貫経営をすることになった。 現在、約330頭あまりが肥育舎などの畜舎で飼育され始めた。 今後、今求められている、赤肉のヘルシーさが一段と注目されており、これからも大いなる需要が期待されていることから、村としても全力でこの施策に取り組んでいきたいと考えているところである。  

除雪の始まり

image image 今年の除雪が始まった。 14日の夜から雨雪が降り出し、夜半から本格的に降ったようで、朝方の除雪車の動く音で目を覚ました。 それでも根雪になるような雪質ではないし、大地も乾いておらず、根雪にはならいと思ってよいでしょう。 金曜日は、過疎の総会、理事会に出席し日帰り出張、その夜には、田子内地区の農事組合法人「アグリード仙人」の収穫祭に出席した。 この法人は村内では一番多い耕作面積が集積されている地域であり、その法人化による農業経営は私ももっとも期待している地域でありました。 それが、農地中間管理機構の設立時期と重なり、どうなるか心配していたが、それを見事クリアーし、受委託面積が14ヘクタールで出発し、収穫祭にこぎ着けることができ、とてもうれしかった。 代表理事の挨拶では、既に来年度は今年の倍の30ヘクタール近くの面積見込みとのこと、そのための人材確保など今から来季の構想に頭を悩ましているとのことであった。 これで、村の稲作経営、水田対策の基本方向はほぼ固まり、これらの法人に個人で経営している方々が、高齢化などで継続困難となった場合の受け皿はほぼ固まったものと思っている。 現実に、4っつの農事組合法人が動き出し、面積も順調に伸びており、大半がこの方向に集約されて行くことが可能であろうと考えられる。 村の「あきたこまち」はその食味値が非常に高く、昨日頂いたあきたこまちは何と80というものでした。 これは、自信を持って作ってよい米であろうと思う。 これを特徴にして今後も農業法人、農家の方々はがんばってくれることと期待している。 雪だって、豊かな米を作るためには大事なことかもしれません。 除雪も始まりました、この雪は降らなくなることはありません。 雪としっかり付き合い利用、活用する事も村の大事な戦略であるわけです。 りません。

畜産施設竣工

image image 日本短角牛を中心とする繁殖牛、肥育牛の一貫した経営をするための施設が完成して、竣工祝賀会が行われ、ご案内を頂いたので出席した。 短角種の村における歴史は古く、臨時の市場も開設された時代もあり、焼石岳山麓での自然放牧、冬は農家での飼育と、手が掛からず、畜産の主流であった時代が長かった。 黒毛和牛に押され、衰退したが、現在はヘルシーな肉質が好まれるようになり、その復活に期待して、村としても積極的にこの事業推進に力を入れたいと考えている。 このため施設は村や県、県の農業公社、民間が整備し、その運営を指定管理して畜産振興を図ろうと、年次計画で整備を進め、その一段目が完工し、現在330頭余りが飼育開始されている。 今後も計画的に事業が進むと、加工施設にも整備を進め、雇用の場ともなるように多いに期待したい。 今正に、アカベコの時代になるのではと多いに期待しているところである。

冬支度

立冬が過ぎた。 あちこちの山には初雪や道路閉鎖の情報が毎日ある。 仙人郷にも初雪が10月28日にあり、342号線の須川高原では翌日には解除になったが通行止めとなった。 これから小春日和の日も続き観光客の中には残念がる向きもあるし、私自身もその一人かもしれません。 しかし、道路管理者としての秋田県や関係者は事故につながる無理な通行は難しく止むおえないことになりましょう。 春先の除雪を早めるようにして、お客さんにも納得していただきたいところです。 一般道路での防雪柵を下げる作業も急ピッチで進み、山々の木々も次第に葉を落とし、着たるべく冬に備え、ゆっくりと休み体制にはいいている。 しかし、我々は休んではいられない。 国の予算、消費税、景気対策、防災、人口減少対策、などとともに降雪前に準備をしなければならないこともたくさんある。 先日の部落長会議でも、除雪対策についての要望もありそうした体制の整備をしっかりと整えなければならない。 私も手術をして満3年を経過、先日の定期健診でMRI結果、血液検査とも全く異常なく正常とのことでほっとしている。 あとは疲れないようにしっかりと健康管理をしなければならないと思っている。 そうはいっても、公職、来週からは相当ハードな日程が立て込んでいる。 元気に動くのがゆっくり休めることにもつながるようにも感じている。 昨晩も私の地域の農業法人「岩井川ファーム」の収穫祭があった、懇談の中でやっぱりお母さん方のっ協力がないとだめだと、強調されていたし、実際男の手だけでは足りず、かなりの部分での協力が多きいことが参加者からも理解できたし、そうした面での協力体制の確立はどこの農業法人でも同じであるようだ。

遠藤堰の歴史

私の地域の重要な水利である「遠藤堰」の歴史についてはほとんど知られていない。 史実としてあるのは、地域の鎮守様である「岩井川神社」の御神体とされている銅版に遠藤氏の名前があるのみで、それ以外は、口承で遠藤堰を開削したと伝えられているのみであるようだ。 それが、岩井川部落長が秋田県の移動歴史研修かなんかで偶然手掛かりを得て、講師である元県立図書館長半田和彦氏に遠藤氏のことについてご相談をしたところ、早速調べてくださり、その報告をかねた講演会があった。半田さんは、「武士について」の研究を専門としており、古語の読解にも当然精通されており、系図などから順々に読み下げていき、「遠藤伝左衛門」を発見、秋田藩主佐竹氏の城下町であり随分と位の高い武士が住まわれている西根小屋町に300坪を越える屋敷に住まわれていた武士でおよそ2百石とりの高級武士であることがわかった。しかも、増田の奥岩井川郡での新田開発も佐竹藩主から許可されていることもわかった。 加増された禄高もその新田開発からの禄高をそっくり加増されていることも判明。 そうした経緯が、遠藤堰開削の許可を得たのが遠藤氏であり、それに協力したであろう地元の肝煎りに何らかの記録がないかどうか今後我々がそうした発見につとめることが必要であろう。 当時の徳川時代、1729年、享保14年の岩井川村の戸数が83戸、それが遠藤堰開設により新田が開かれ戸数も96戸人口も487人に増えている。馬70頭とある。 大変興味のある歴史であり、郷土を知るよい機会であった。 同時に、秋田藩主の歴史、福島県岩城、などとのつながりなども知ることができた。