カテゴリー別アーカイブ: ノンセクション

相次ぐ訃報

(奥羽の山並みと大空からしっかりと見ていてください) どんな年回りなんでしょうか、どうも変で、わたくしの先輩たちの訃報が相次いでおる。 そんなに多くないわたくしたちの職場で、今年だけでも3人も亡くなった。 収入役と助役を務めていただいた先輩が亡くなり、昨日は総務課長を務めた方、昨日は私が就職してすぐの上司である方が突然に亡くなった。 これにはびっくりした。 それぞれ先輩であり、上司であったこともあり弔辞を述べさせていただいた。 日程もかなりタイトであったが、これだけは失礼することはできないと思っており、職場での思い出などをおもいおこしながら、気持ちを込めてお別れのご挨拶を述べさせてもらった。 一昨日は、平均寿命、高齢化社会と運動などについて秋田大学との連携協定に基づく事業をしたばかりであり、いささかそのタイミングについて、感ずるところがあった。 それにしても、人の一生、その人の最後、なるほどと思われる人生、どんな生き方であったのか、QOLからQOD、つまりクオリテーデット、つまり個人の充実した人生から「個人がいかに納得できる逝き方」ができるかということをつくづく感じた二日間でした。 戦後の厳しい村の行財政環境の中で、村の発展に大きな一時代を画してくださった方々が次々と亡くなり、寂しい限りである。 私自身、厳しい先輩でありましたし、半端な指導ではありませんでしたが、それなりについていき、勉強もしたつもりですし、反発もしました。 意見の衝突はしょっちゅうでありました。 それが今にして思えば、ありがたかった。 後輩の職員にもそうした厳しい指導を受けた職員も多く、これから村を背負って立つ人材がしっかりと育っておることに感謝したいと思っている。 あまりに突然の訃報に言葉もありませんでしたが、今は安らかにお眠りくださいと心から述べさせていただきます。 合掌

秋田大学との連携事業

(伊藤医学部長(中村教授(佐々木准教授(質問する高校生(参加者の皆さん(高崎教授) 秋田大学と東成瀬村との連携協定を結んだのが9月26日、その一回目の事業として「メデイカル・サイエンスカフエ・ネクスト」と題して、秋田大学医学部長・伊藤教授がサイエンスカフエ・マスターとして3人の講師ともに村の防災センターで40人を超える参加者の元、和やかな中にも、表題にあるように、医学と科学のみならず教育学部をも入った幅広い分野での内容の濃い話題を提供していただき、多いに勉強になった。 大学では、今年は3回目の事業でそんなに多く県内でこうした事業を展開できるわけでもなく、ありがたい企画であった。 しかし希望としては今後もこうした機会を作っていただくように願っている。 主催者としては、秋田大学地域創生センター長・川東雅樹氏で連携事業としても大いに期待したいし、こうした専門的なお話を聞く機会は滅多になく、参加者はまたやってくださるだろうかと帰り際に多くの皆さんから聞かれ戸惑ってしまった。 保健学科の中村順子教授のソフトでありながらも元気な切り口での、「最後まで自分らしく生きる・暮らす」では、高齢化社会の生き方として、洋式トイレのすすめ、ダンスなどでの新しい振り、つながりの大事さなどを強調されていたし、自分らしく幕引きを迎えることも大事であるとした。 また、保健学科佐々木准教授の「心豊かにするコツ」でもいかにして自殺予防に取り組むか、優しく語り合い相談しやすい環境を作ることなどが述べられていた。教育文化学部の高崎教授からは運動の大事さが具体的に説明され、参加者も多いに関心を持って意見効果をした。 最後の最後まで活発な意見交換が行われ、小さな自治体のの良さがよくわかったと医学部長の総括で閉店した。

遠藤堰の歴史

私の地域の重要な水利である「遠藤堰」の歴史についてはほとんど知られていない。 史実としてあるのは、地域の鎮守様である「岩井川神社」の御神体とされている銅版に遠藤氏の名前があるのみで、それ以外は、口承で遠藤堰を開削したと伝えられているのみであるようだ。 それが、岩井川部落長が秋田県の移動歴史研修かなんかで偶然手掛かりを得て、講師である元県立図書館長半田和彦氏に遠藤氏のことについてご相談をしたところ、早速調べてくださり、その報告をかねた講演会があった。半田さんは、「武士について」の研究を専門としており、古語の読解にも当然精通されており、系図などから順々に読み下げていき、「遠藤伝左衛門」を発見、秋田藩主佐竹氏の城下町であり随分と位の高い武士が住まわれている西根小屋町に300坪を越える屋敷に住まわれていた武士でおよそ2百石とりの高級武士であることがわかった。しかも、増田の奥岩井川郡での新田開発も佐竹藩主から許可されていることもわかった。 加増された禄高もその新田開発からの禄高をそっくり加増されていることも判明。 そうした経緯が、遠藤堰開削の許可を得たのが遠藤氏であり、それに協力したであろう地元の肝煎りに何らかの記録がないかどうか今後我々がそうした発見につとめることが必要であろう。 当時の徳川時代、1729年、享保14年の岩井川村の戸数が83戸、それが遠藤堰開設により新田が開かれ戸数も96戸人口も487人に増えている。馬70頭とある。 大変興味のある歴史であり、郷土を知るよい機会であった。 同時に、秋田藩主の歴史、福島県岩城、などとのつながりなども知ることができた。

名僧「了翁禅師」を知る

湯沢市八幡生まれで江戸時代に黄檗宗の名僧として知られた「了翁禅師」の生涯を勉強する国文祭事業として湯沢市の了翁禅師研究家が主催して「今なぜ了翁禅師か」としての、講演会、パネルディスカッション、演劇と講談が湯沢文化会館でで行われた。 了翁禅師についてまとまったこうした事業は珍しく、家内と一緒に参加した。 午前午後とほぼ丸一日の行事であったが、関心もあり充実した一日となった。 基調講演は、岩井川の龍泉寺で剃髪、得度した了翁さんが須川を超えて修行した中尊寺の貫主・山田俊和師からの講演、パネルディスカッションでのパネラー、上野寛永寺長老・浦井正明師、駒込学園理事長・末廣照純氏、萬福寺文華殿副館長・田中智誠師、弘前大学教授・渡辺麻里子氏さらには、講談師・宝井琴桜師の講談、演劇「了翁さん物語」(鈴木育郎氏脚本)などでその生涯を知ることができとても参考になった。 断片的にはお聞きしたことがあるのですが、このようにまとまっての勉強会はとてもありがたかった。 特に、了翁禅師が岩井川の龍泉寺で剃髪、得度したこと、その龍泉寺での修行当時、了翁のたぐいまれな特質を見抜き、大きな支持者としてご貢献した植田村源太の斎藤自得氏のことなどには大きな関心事であった。 齋藤自得氏直系のご子孫である齋藤さんとは私自身も高校の先輩であり今回も盛岡からこの行事に参加されており、下宿も一緒だったことからしばらくぶりにお会いする絶好の機会ともなった。 了翁さんが大蔵経(一切経ともいうようで、百科事典、解説書であるそうです)の収集という大願発起し、錦袋円という名薬を作り莫大な富を築きそれを皆さんからいただいた金子であるとして、すべてを人のため、世のために、あるいは大蔵経収集のために、あるいは世界で初めての公開図書館を作り、さらには寛永寺境内に勧学講院(学問所)を作り、そうした世のため人のためにすべて使い切った。 特に一つの宗派にこだわることなく、天台・真言・禅宗と三宗の21寺院に大蔵経を収めたことは師の強い信念でもあったことでしょう。 我々がよく食べている「福神漬」も了翁さんがなずけた漬物だそうです。 了翁さんは78歳で亡くなり、亡くなる前は古びた袈裟のみで亡くなったそうで、すべての財は世のため人のために使って生涯を終えられたようです。 郷土の偉大な名僧であったことで、そうした名僧が我が東成瀬村岩井川の龍泉寺で剃髪、されたことは誇りでもありありがたいことでもあります。 合掌

共済事業を視察

  秋田県市町村総合事務組合が行っている交通災害共済事業の山口県における実際の事業を、この事業における審査事務のあり方などを、審査委員の先生方と一緒に研修した。 山口県は平成の大合併で、14市42町村から13市6町になり、こうした共済事業も運営が難しい状況になった。 県労災が主流の中なかなか加入が伸びなかったが、合併後の大きな規模の市が構成団体となり、一気に財政が好転しているとのこと、加えて掛け金が労災よりも安く、見舞金も簡単に給付されことから、加入率も良くなってきている。 そのための対策、掛け金も3段階に分かれており、事務的には煩雑であるが、住民のことを考慮すると極めて現実的であったと考えられる。 新入生に対しては、防犯ブザーを贈るなど、いろいろ工夫しておられ、参考になった。 もちろん、我が方でも独自の加入率対策や運用もしているが、参考にすべきこともこの視察で感じ取れた。 視察した山口県組合からは、山口県庁が目の前で、後背地が山で借景となっているほか、この地が、中世には大内氏が治めていた由緒ある地であり、菩提を弔うために建立したとされる瑠璃光寺五重塔は、屋根が檜皮葺(ひわだぶき)で、全国に現存する屋外の五重塔のうちで10番目に古く、その美しさは日本三名塔の一つで国宝となっている。 このほか山口が文化を大事にしている県であることが随所に感じられた。 日本で最初にホタルなどが棲息できる環境に配慮した河川の護岸工事を取り入れたことも知ったし、駐車場の整備率、散歩道の整備と公衆トイレが随所に整備、しかもその管理が行き届いていることも感心した。 大内氏の文化遺産が脈々と現代に引き継がれてる歴史を感じた。