年賀状に思う

毎年年末になると年賀状のことについていろいろな話題が出てくる。 それもこれも、時間に追われて、郵便局でお願いしている期日までになかなかポストに出すことができず、あーだこーだと言って弁明にこれ努めている。 そんな一人の私であるが、今度こそは、あて名書きだけは住所録から打ち出して印刷することをご勘弁願うことにして、必ず自筆で下手であっても何か一言添えてご挨拶をしたいと思っている。 今年の課題にしようと思っている。ちょっと気が早すぎはしないかなと思うが、実は、新聞を読んでいたら、投書欄に「年賀状を出せるのは喜びなのだ」という投稿があった。 80才になられる方で、「いくつになっても年賀状をいただくのはうれしい、家族の写真や消息を確かめ、手跡を確かめ、送ってくれた人の顔やその人とのつながりを思い浮かべるのは、元日ならではだ。」 私にもあるのですが、最近は「病気で体力も劣え、また加齢のため年賀状を書くのが億劫になってきたので、今年限りで欠礼させてくださることをお許しください」といった年賀状が届くようになってきた。どこかさびしく残念な思いに駆られる。 この方も、退職して20年余りやはり年賀状が億劫になって今年限りと思ったことがあったようですが、元日の朝のうれしさを思うと、やめることができない。とのことです。 年賀状を書きながら、そうか、年賀状を出せるというのは喜びなんだ、と気づいた。「私は元気です」と知らせることのできる喜びである。そして、「あなたを忘れていませんよ」という返信は、生きる励みになる。生きている限り、これからも書き続けよう。と結んでいる。 そうなんですよね! 特に私なんかは一昨年に大きな病変が見つかり手術という人生において最大の危機に直面したものにとって、その後の体調がどうなのか、あるいは、元気なのか、もう駄目なのか、その後の状況も知りたいこともあることであって、なかなか聞くことは気が引けるわけで、そうした意味合いからすると、その本人から年賀状が届くということは礼儀からしても大事なことであると思った。 そんな時に、一言添えた年賀状は非常に大事であると思った次第でした。ちなみに一昨年は「一陽来復」として年賀のご挨拶をし、できるだけの方々に対し一言を添えてご挨拶をした。 外国ではクリスマスカードが年賀状にあたると思うんですが、これは年賀状とはまた違った趣であり、やはり日本文化の「年賀状」はやはり年賀状であるのです。 そんな思いでこの投書を読んだところでした。 大荒れの天気も一息ついて、昨日の夕方はかすかな夕焼けもみられ、除雪機械も幾分緩んだ気温の中、排雪場所に雪を一気に押し寄せていました。