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子育ての記憶力

もう少しで9か月になる孫がいる、その孫とこのところ休みの日ごとに留守することがどうしたわけか多い。 その成長ぶりは孫バカと言われるかもしれませんが実際驚くばかりである。 極端な話し、朝食の時にテーブルに立ち上がろうと懸命になっていることを話しになったのが、夕ご飯の時はもう立ち上がった、とか何とか言って話題となり、誰それの時はこうだったとかあーだったとかと話題が広がっていく。 そうなると私は全くのつんぼ桟敷、よくもまあー覚えているものです。その記憶力には恐れ入りましたとなる。世の女性はみんなそうなんでしょうが、私からするとそんな記憶はほとんどないのである。たまに、「まてよこんなこともあったなー」と言うとそれは違う、それは誰それであって違うとなり、反論も何もない。 それが、このところどうしたはずみか、休みごとに一番小さな孫とおる機会が多くなり、自然とそうした観察する機会も増えてきていることから、一応話題には入っていける。 従って、その成長は目覚ましく、こんなに早いものであるとは思っていなかった。 自分の子供の子育てにはあまり関わっていなかったことにもなるが、孫にはほとんどそうした思いや記憶があまりないのが実のところである。 それが、今更ながら孫の成長の速さに驚いている自分が逆に年を取っているのかと思うと、待てよ、孫には負けておられないぞという訳ではないが、体力の維持だけは孫に負けないように頑張らなければとつい思ってしまう。 そんな思いと同時に、子育ての記憶力の確かさは、自分の母親と同じように妻にはどうしてもかなわないし、その記憶力は母性本能なのでしょうかね-。  

お幸せに

知人の娘さんの結婚披露宴にご招待を受けて出席した。 久しぶりの結婚披露宴で、出席された方々も、何年振りだろうという方々も多かった。 私自身も数年前は、春と初夏、秋などにに何人かの結婚式や仲人を頼まれてのご祝儀があったのであるが、そう言われてみると最近はほとんどそうした機会がなかったと改めて感じた。 結婚適齢期の方々もおるにはおるのですがどうしたわけか結婚する話が聞こえてこない。 国や県を挙げて結婚奨励に取り組んでいるし、出会いの機会などあの手この手で懸命に取り組んでいる。 こればかりは、本人たちの気持ちでありなかなか難しい問題である。 結婚式で感じるのは、どうも高校の時からの付き合いが続き、その延長線上での結婚にゴールするといったケースが多いように感じる。 やはり、本人同士の積極的な交際などが最も結婚に結びつくように感じている。 そこいらあたりを、どう理解するかどう認めていくのかも考えていく必要があるのかもしれない。 そうした付き合いは、職場環境が違い、遠く離れていても、その付き合いは続き、今回のカップルも見事に結婚にゴールすることができたケースで誠におめでたい限りである。 これからは、いろいろなケースがあるでしょうが、何とか結婚に結びつくように考えていく必要があると思うが、妙案となるとなかなか難しいのが現実でもある。 しかし、結婚できる環境整備についてはいろいろ考えられることがあるように思えるような気がする。 皆で考えてみたいものです。 日本の 人口は減り続ける、秋田県の人口も東成瀬の人口も平成40年には2,000人を切るといっていたが、減少率そのものはわが村が特別に激しいわけではないものの、真剣に考えることが必要ではあることには間違いがない。

したたかさは健在

情報誌を呼んでいたら、週刊誌の記事からの一文があった。 それでは、ホリエモンこと堀江貴文氏が仮釈放されて記者会見した際の体重の変化に驚き、1年9カ月にわたる刑務所生活の実態と食事などに触れておられた。 その食事も、一日の食費500円でこんなに食べられるんだと驚くくらいの内容にびっくりしていたし、それを知った私もそういうものなんだと思った次第でした。ちなみに一日のメニューは、主食のご飯はこめ7に麦3の麦ごはん、これに朝はノリやつくだ煮、サンマ缶詰、週に2回ぐらいは納豆や漬物、味噌汁、昼食は麺類、カレーライス、牛丼などであり、夜食の副食はハンバーグやチキンのグリル、焼き魚などだったそうです。 この食生活と刑務所での担当係をこなし、健康維持のための運動部活動などで規則正しい生活でそうした体重になったのだようです。 同時に得意分野のITを駆使した有料のメールマガジンを駆使して何と年間一億円以上を稼いだそうです。 さらに、仮釈放時には出所の様子を有料でネットに流し一日だけで1・5億円を稼いだと言うんですから驚きです。 これは、週刊新潮や週刊女性などの記事から時事通信の記者が紹介したものですが、したたかな人は考えることは違うものです。 確かに、出所後のテレビ会見は私も見たのですが、すっかり落ち着きはらって、謙虚さが見えたのですが皆さんにはどう映ったでしょうか。 これからどんな活動をするんでしょうかねー? 寒いには寒いんですが役場前の桜の芽もかすかに膨らんできました。

「へえ~」と思わせる

秋田県出身の30歳代新進気鋭の経済人の講演を聞いていて、これはいけると思ったことがあった。 そんなこと無理だ!と決めつけて新たな挑戦をしない、考えを持とうとしないことから一歩も二歩も前向きに物事を戦略として考えていかなければじり貧に陥ってしまう、目の前にある商機を逸してしまうことになるのが悔しい!と言っておられた。 それは前例踏襲にこだわり、新たな視点での売り込み宣伝、新商品開発などに、どちらかというと消極的になりがちで、後れを取っていると感じておられるとのことであった。 たとえば、観光事業であっても、あっと驚くような発想で発信して観光客をつかむことだってあるのではないか? その講演を聞いていて、私はすぐにはっと気付いた。 よし!この考え方を是非会社に持ち込み提案してみようと思って相談したら、いとも簡単に笑って「それは・・・・・・うーん」と言ったきり返事が返ってこないのです。 私は、会議や講演の中でいろんな方々のお話を聞いていて、何か利用、活用できないかと考えてそうした機会に臨んでおり、その都度何かのきっかけをつかんでくることが多い。もちろん全く何も得られない会議や講演会も多いが、それはそれで仕方のないことであるが何かしらの反省材料にはなるものである。 私自身、これといった独自の発想や事業で成功したなどということもなく、そうした能力も持ち合わせているわけでもないが、いろんな機会にそうした参考になることをお聞きし、それを元に事業展開をしてきたつもりである。 そのためには職員にもご苦労をかけたし会社の職員にも無理なこともやってもらってきたのも事実であると思っている。 そうした思いの中で、今回相談したことが「無言」みたいな「反応」がないととても残念でならない。 そんな悶々とした思いの中で、魁新報の「北斗星」を読んで、そうだそうだと、つい頷いてしまった。 サッカーJFLのフアン獲得作戦の一つとして取り上げたことである。 FC町田の監督が「秋田」ということで、「秋田」性の方人を無料にするという。いいじゃないですか! こうしたことは、先の講演会でも考えられることの一つに挙げられていたし、参考にすべきと思っている。 知恵がなければ、そうしたいろんな意見を参考にして実行していくのも一つの作戦であろうと私は考えている。 役場前の駐車場も雪が消えたが、雨模様で底冷えがし、桜並木もいつになったら桜が咲くやら、それでも少しは芽が膨らんできたのかな?

原発事故の証言

もう2年を過ぎた福島第一原発事故処理に命がけで当たった発電所所所長と現場の奮闘を描いた「死の淵を見た男ー吉田昌郎と福島第一原発の五○○日」の著者である門田隆将氏の講演を聴く機会があった。 今回の講演は内外情勢調査会の4月例会での講演であった。 講師が出版した本を中心にした講演内容であったが、90分間があっという間に過ぎてしまうほどの内容の濃いものであり、我々がマスコミなどを通じて知った内容とは比べ物にならないほどのショッキングな内容であった。 吉田所長や直接現場の当直長をしていた方々からの証言に基づく誠にリアルなお話で、あらためて事故当時の緊迫した状況とそれに対する現場での対応を知ることができた。 氏が週刊誌の記者としてスタートしデスク、次長、副部長を経てフリージャーナリスト、ノンフィクション作家として多くの人脈を作り、数々の著書を表しておられるようであるが、中でも、今回の吉田所長からの証言は実に1年4カ月にわたる粘り強い働きによって実現し、原発事故の実態を著すことができたようである。 氏が、冒頭に話されたことは、常に念頭に置いて考え、取材活動、作家としての立ち位置にしておられるのは企業には、利潤と個人、公があり、人には個人と立身出世、公がある、マスコミにも報道の使命、立身出世、それと公がなければならないと考えているとのことであった。 特に今回の原発事故では、マスコミが報道姿勢としてラベリング、類型化し、これが戦後日本のマスコミの傾向として自己陶酔型、シャッター症候群となってしまう閉鎖的な報道ではなかったのではないかといったような考え方をしておられた。 そうしたことから話が始まり、事故発生から初期段階での現場での死を覚悟しての息詰まるような対応が、現在の第一原発の現況であるようで、初期段階でのスプリンクラーによる冷却、ベントの対処などによって、日本が3分割されるような事態には立ち至っていないようである。 この3分割とは第一原発が爆発してしまうと10基ある原子炉がすべて爆発し、チエリノブイリ事故の10倍になることや、北海道と西日本は安全かもしれないが東日本はまずほとんど放射能に汚染されてしまったであろうとのことであった。 つまり3分割されてしまう状況であったとのことであった。 吉田所長には、歴史に向かって証言してほしい、日本の歴史に残る証言になることを申し上げてお話しいただいたとのことであった。 現場の方々を中心にたくさんの方々からの証言をもとにしたもので、きわめてリアルであり息づまるような講演であった。