「大局的な判断」を求められることは国政などでは特にあるのではないかと思われる。
その一つとして、今回の参議院環境委員長の解任決議案の取り扱いこそ、その大局的な判断をすべき事案でないだろうかと考えられる。
時は今まさに日中関係が、かってないほどのぎくしゃくした関係であることは誰しもが感じているときである。
しかも、それは歴史認識、教育などにも関わり同時に国内事情と経済、イデオロギーを含めた広範な外交問題など我々には到底理解できないくらいの複雑な背景があるわけで、軽々に論評などできるはずもないのですが、それだけに、かって外務大臣をも経験された環境委員長が、一日だけ日程を急きょ変更して、簡単には会見のできない外交問題の権威者がお会いできるという突然の日程ができたことに対し、対応することがなぜ認められないのだろうか?
折角のこうした外交のチャンスを逃す手はないと思えるのですが、それを許可なく日程変更をして委員会を開催できなかった責任を「解任」という手段に訴えなければいけない姿勢に唖然とした。
委員会審議が重要であることは誰もが認めるところであろうものの、その一日の変更あるいは副委員長とかが代行できなかったんだろうか、また、一日遅れただけの国益と外交の中枢におられた方々の会談の国益とは比較対象にはならないかもしれませんが、どうしても理解に苦しむ。
大局的な判断での国政であってほしいし、国会運営であってほしいし、柔軟であってもよいのでないだろうか。
そんな国政であってほしいと願わずにはおられない。
我々のところであっても、もしかしたらそうしたことが期待されることもある場合がないとは言えないかもしれません。
そのためには、相互理解があり、信頼関係も構築されていなければならいことになるかもしれません。
しかし、それが前提ではなくとも、「大局観」はいつの時代も求められることであるように考えている。