3・11を思い出して

平成23年3月11日の手帳を出して、あらためて思い出してみた。 あの日は、議会の最終日で、お昼前に閉会したことから、秋田市での移植医療関係の会議に出席のため出張して秋田市手形の陸橋に差し掛かる直前にものすごい異常を感じて車の外を見を見ると、家家から人々が次々に出てくるし、電柱は揺れる、電線は波打つ、地面は盛り上がる、車も揺れる、間もなく信号も消える、これはすごい地震だ! それでもかなり長い時間揺れた感じで、車のテレビを見ていたが、宮城県での地震発生を知らせていた。 落ち着いたところで、とりあえず会議場に向かったが、信号が止まったままなのでかなり慎重に進んで行き、到着、会議の場所も当然のごとく停電であるものの、とりあえず会議は開かれた、理事長のお医者さんである加藤さんが、こうした非常事態なのでなるべく早く会議を切り上げたいとのあいさつで始まったが、途中何度も余震があり、お隣の婦人会代表の方は、わーといってこちらにしがみつくありさま。 30分もしないで会議を終えてとにかく早く帰らなければならないと気が焦ってばかり、会議の始まる前から電話で連絡が取れていたが、村のほうは特に目立った被害はないようだがすぐさま調査ために職員が行動に移ったとのことであった。 この時点では、副村長人事が内定し、議会からも承認をしていただいたことから、議会のあいさつに来ていた副村長から対策本部に入ってもらい、打ち合わせをしてもらった。 秋田での会議後3時30分にただちに帰途に就いたが、当然のごとく高速は止まってしまい、13号線を走ることになったが、すごい渋滞で、役場に到着したのは18時30分、地震対策本部での報告打ち合わせ。対策検討。 雨雪で冷え込みも次第に厳しくなった。 停電。 この日の積雪深は役場で193cm、地震の際に屋根に雪があったらどうしただろうか? 自宅に帰った時間は書いていなかったが、カップラーメンを食べたことは書いていた。 停電で、真っ暗やみの中で、孫たちも不安そうな夜になった。 地震の名称は「東北・関東大地震」(後で、名称が変更になり「東北・太平洋沖地震」となる)で14・46発生、震源地は岩手・宮城沖、マグニチュード9.0、地下で400kから200kのプレートが動いた。大津波発生とあった。 車での移動途中、車のテレビをずーっと見続けていたが、考えてみると、車のテレビだからこそ見ることができたのであって、停電ではこの様子は全く見られなかった。 その津波の様子はすべて見ることができたが、何とも言われない、ただただ驚くばかり、こんなことがあるのか、あまりにもリアルで、そのすごさに、押しつぶされている家屋、車、飛行機、すべてのものが押しつぶされ押し流され、道路を超え次々に襲いかかる津波の恐ろしさを、この世のものとは思えない状況に、まさかと思いつつ、これが現実なのかと目を疑いたくなるような状況であった。 こんなことが日記に書かれていたし、あらためて2年前を思い出してみたところでした。