国文祭で方言紹介

秋田で「第29回国民文化祭・あきた2,014」が開かれることになっている。 村でもこの国文祭に参加するために何の分野で参加できるかいろいろ検討を重ねていたところです。 具体的には「全国の方言」を紹介できるような大会にする方向で準備を進めており、実行委員会も立ち上げ、主催者である秋田県とも協議している。 ところで、その方言と言っても突き詰めて考えていくといろいろな使い方があり、紹介をするにしてもどのような形での紹介なのか、全国規模で募集するとしても具体的にどういった組織を活用し、ご協力を頂けるのかまだ具体的には進展していないのが現状であろうと思っている。 そうこうしているうちに時間が迫ってくるので具体的に私も取り組んでいかなければと考えているところである。 当面、日本で最も美しい村連合の組織構成団体に呼びかけをして参加あるいは紹介をいていただけるようにしたいと考えているところである。 そんなことを考えているとき、時々この欄でもご紹介させていただいている「内館牧子の、明日も花まるっ!」を読んで、そうだよなーと考えさせられてしまった。 よその土地での懇親化などで、秋田県人であることはすぐにわかるようで、一言二言秋田弁を使われることがあるが、その時は、酔った勢いなどで「違う!そのアクセント」と言って普段使っている方言で話す。せいぜいここまでで、それ以上になると、それはもうどうでもよくなってくる。 従って、秋田に住んで身についた方言はそんなに誰彼が使えるものではないと思う。少なくとも秋田で生を受けて生活したものにしかわからない方言は、身についているし、自然と醸し出されるものであろうと思う。それが、内館さんの言う「体を流れる風土」であろうと思われる。 少し習ったからと言ってそんな微妙な表現はできないのではないだろうかとも感じられる。 そうしたことは、秋田県に住んで1年8か月のお笑い芸人さんが盛んと秋田弁でお笑いを取り、落語に講演に大忙しであるが、私は正直に申し上げてどこか違和感が感じられてならない。 それよりも「馬鹿にされている」ような気がするのは私ばかりであろうか。 もう少し、落語なら落語、講演ならその趣旨に沿った話、経験、考えを期待しているんですがどうであろうか。 それでも、講演などを聞いている方々が、結構喜んでいるからそれで良しとするのがよいのだろうかとも思わないでもないのですがねー。 つまり、どこかの地で、一杯やっていた時に、際限なく同じような秋田方言を使われたんではすっかり嫌気がさしてくるし、馬鹿にされているようになってくることを何度も経験している。 もういいよと思って、全く方言を使わず、普段どおりの話をするようにしている。 こんなことを考えていると、国文祭ではどんな形を取るのか難しいことであるようであるが、あまり難しくなく考えて、すんなりした形での運営を考えるよう整理して行ったらどうだろうかと思っている。