(わが村にも鉄道計画があった!)
これまで、郷土資料でも「消えた鉄道敷設」として大正の初期に十文字駅より東成瀬村に通ずる鉄道を敷設するための測量がなされた、それによると田子内にも停車場ができるよていであった。その後、昭和四年三月、水沢町より若柳村を通り増田、十文字に通ずる鉄道敷設の件が当時「椿川線鉄道計画」といって衆議院の誓願委員会において採択されたが、結局計画倒れに終わった、とある。昭和7、8年ごろには鉄道敷設予定地に測量士たちによって、杭が打ち込まれてもいたようだ。この計画は吉野鉱山の規模拡張からの鉱石搬出や東成瀬村の豊富な森林材の搬出にも関係していたようだが、吉野と十文字間の地元住民の鉱煙と鉱毒被害のための田んぼが荒廃するとして反対運動もあったとかで立ち消えとなった。とある。 そうした郷土資料にも付いていなかった実際の計画概要図が増田町の千田元町長から見せて頂き、村の玄関に掲示させていただいている。 この計画図では、十文字から東成瀬村桧山台までの計画で、前述した内容とは少し違うようだが、いずれにしろ村にもそうした計画概要があったことは、とても興味深いものとなった。 是非ご覧下さい。 正しく大正ロマンです!